ヨナの手のひら(1) "砂塵" 「チッ、完全に遅刻じゃん。またクビんなっちゃうよ。」 ヨナは形の整った薄い唇で吐き捨てるようにつぶやくと、くたびれた250ccのスロットルを捻り上げた。 日に灼けた細い腕は、重労働による鍛錬で良く引き締まっている。 年代物の改造ガソリンエンジンが、エタノール100%のバイオフエルに耐えかね、たちまち悲鳴を上げる。 昨日つぶした、右親指の豆が疼く。 渋滞の隙間を、罵声を浴びながらスラロームのように縫う。 こんなとき「高速道路に乗れたらいいのに」と思う。 何年も補修されない一般道から舞い上がる土埃が、自分で切ったトビ色のショートヘアの中まで容赦なく突き刺さって来る。 彼女は有料道路は使えず、鉄道にも乗れない。 うっかりETCなどの公共的な施設のゲートに近づけば官憲の餌食だ。 専用の電話番号も持つことができない。 身銭を切り、GPSを潰した他人名義のヤミチャット端末を定期的に買い換える。 セカンド・クリーチャのヨナには「ふれんどID」がない。 摘発を逃れるため、ヤミ端末はポリ袋に入れて濡れたハンカチでくるみ、使用時以外は電源を入れない。 ケータイのマザーボードは政府の仕様で、スイッチを切っても一定時間ごとにOSが起動し、位置補足の為の微弱電波を発信する事が通信事業者免許の取得の条件になっている。 セカンド・クリーチャはアパートへの入居も法で禁止されているから、父祖の代からの持ち家がない彼女はホームレスだ。 自分が女の肉体を持っている事以上に、「蜂」の恐怖が安眠を妨げる。 野宿で「蜂」に刺されれば命はない。 惰眠をむさぼりたい盛りのヨナには朝が一番キツい。 戸籍を持っていれば、誰でもICタグで瞬時に国民登録情報が認証される。 2014年以降生まれの世代なら、「テロ防止」の名目で生体に埋め込まれたマイクロチップで、日常の殆ど全てがカードレスだ。 公共施設への出入り、鉄道の乗り降り、コンビニの買物からATMの入出金。。。 だが、ヨナは病院ではなく密かに自宅で取り上げられた。 出生届を受理される為には、新生児の身体にチップを埋め込んだ事を、役所のカウンターのスキャナで証明する必要がある。 だからヨナには戸籍、つまり「ふれんどID」がない。 ヨナと同じ境遇の「セカンド・クリーチャ」と呼ばれる約300万人は、国のあらゆる恩恵から排除されている。 そればかりか、身分が判明すれば拘束され、「再教育センター」で強制労働と洗脳の3ヶ月が待っている。 センターでの期間が終わると、外界を見ることもなく、日雇い派遣の「国防軍平和貢献協力事業団員」という名のもとに、肉弾として中東・アフリカ・南アジアなどの紛争地域に直接送り込まれる。 2年の兵役が終われば晴れて戸籍が与えられるが、生還できる可能性は6割程度だ。 戸籍がないため、戦死者の人数や名前が公表されることもない。 ヤミからヤミへの使い捨てだ。 憲法18条の「奴隷的拘束・意に反する苦役」の強制の禁止と、25条の生存権は既に抹消されており、徴兵の違憲性を問う根拠は死んだ。 兵士の管理は資金力潤沢な多国籍の民間会社にPFI方式で委ねられており、国連も手が出せない。 大きな波はヨナが生まれる6年前の、2011年に押し寄せた。 6月の憲法改正投票で、9条の戦争放棄と一緒に、前文から主権在民に関する項目がバッサリ消された。 そこには、「国に迷惑を掛けない範囲で」のみ国民の自由を認める旨が、はっきり記されている。 国連も、独立国家の憲法にまでは介入できない。 改憲の国民投票時の投票率は、大都市周辺限定の不思議な集中豪雨も手伝って45%だったが、「記述不備」で無効票になったものがそのうち15%もあった。 条文ごとに可否を問うだけではなく、有効票の条件として、全ての項目に2択のチェックを漏れなく入れているかを一括判断する方式ため、迷ったりした末に記述漏れがあれば、そのまま無効票となる。 有効票は有権者数のわずか38%。 公立校の教職員の厳重管理、ケータイのフィルタリングなどを通じ、徹底して子どもたちが社会・政治・経済に目を向ける機会を奪う事で、投票した若い世代の大半は法律用語やロジックを読解できなかった。 有効投票数のうち過半数、つまり有権者数の19%を得るのは、財界をバックに付けた独裁政権には造作もないことだった。 動員力と資金力を最大に発揮して、あらゆる企業と官庁から組織票が吸い上げられ、投票開始の2週間前まで数ヶ月に亘って続いたTV・印刷物・ネットへの洪水のようなPRが、多くの浮動層の感覚を麻痺させた。 そして本丸である憲法9条の改変による、防衛隊の国防軍への格上げと派兵。 日本政府は7月、財政破綻を宣言しIMF(国際通貨基金)の管理下に入った。 (アメリカを中心とするIMFは崩壊寸前で、加盟国は他にイギリス・サウジアラビアなど、十数ヶ国しか残っていなかった。中国・ロシア・インド、ブラジルやベネズエラ等の中南米諸国が新たな基金を立上げ、途上国の多くがそちらに鞍替えした為だった。) 7月22日の金曜、銀行業務がが完全に終わる夜遅くを狙って、イシダ首相が徳政令を発した。 当日早朝に事前告知なしで突如開催された緊急閣議で即決。 国民の預金は半年間封鎖、1世帯1ヶ月あたりの引き出し額は300万まで。 複数行に口座を持っていても徴税庁が「名寄せ」するので逃げようがない。 貸し金庫も国が押さえ、貴金属の地金を自宅に隠していなかった者は没収の憂き目を見た。 2009年から株式が電子化された為、個人投資家の所有する株も併せて封鎖された。 国民の預金の海外口座への持ち出しと、株式売却を最小限に留める必要があったからだ。 6ヵ月後には緊急立法が強行され、結局国民の預貯金の40%を国が没収した。 郵便貯金・簡易保険の積立金約340兆円は、既に全額アメリカの金融システムの破綻処理に投入される事が密約されており、日本国民の救済には使う事ができない。 7月24日の日曜に地上波テレビ放送デジタル化が強行され、数百万世帯の貧困層は公共電波の窓を奪われた。 その日以来、国の検閲を通ったコンテンツ以外は放送できなくなり、スポーツとバラエティー番組以外の生放送は消滅した。 ニュース番組は、「ソ連方式」「北朝鮮方式」で放送の直前に収録され、検閲後に「*録って出し」で流される。 心ある報道マンが勝手に「事実を漏洩」できない様にする為だ。 報道の自由と倫理を監視する、独立の第三者機関の設立を政府が妨害した意図はここにある。 まさにその日の徳政令発布。 *取材したソースをその日のうちに編集して放送すること。この手法を使えば、第三者の干渉を受ける隙を作らずに、「いかにも生放送である」ような演出で報道番組等を流す事ができるので、メディア側には社会的信用を前提にした
高い倫理性が求められる。 60有余年の長きに渡って権力を握って来た与党・自由臣民党と、それと結ぶ法輪党は、国民の支持を失いつつあった。 新自由主義経済の破綻で苦しむアメリカの金融資本は、日本が米国債と武器を買わなくなるのを警戒した。 金融資本とその命を受けたCIAは洗脳を画策、日本の官僚と大手広告代理店を通じて警察・検察・裁判所・TV・新聞等を操作し、最大野党・民政党のオガワ党首を、企業からの不正献金のイメージ操作で表舞台から引き摺り下ろす事に成功した。 野党連合としては僅か3議席差で辛勝するも単独過半数を取れなかった民政党は、オガワ元党首の暗躍で、政権樹立後ただちに、かつての政敵だった法輪党と連立を組み、民政党寄りの自由臣民党議員を抱きこみ、結局国会の全議席の90%を占拠してしまった。 左翼2政党は離反したが、多勢に無勢でどうする事もできない。 事実上のオール与党・大政翼賛政権が実現した。 2009年暮れ、民政党のトリヤマ首相は女性スキャンダルを仕掛けられて辞任、代って2010年初めに臣民党・従米派で極右のイシダ首相が就任。 2011年のイシダ首相の徳政令により、銀行の貸金庫にある金品も全て、向こう5年間に亘って国の管理下に入った。 そして金・銀・プラチナの地金は鉱物資源ではなく貨幣だとの、こじ付けとも取れる特別法を作って、売買を原則禁止。 倒産に次ぐ倒産の嵐と、高級官僚以外の公務員の30%解雇や、与党政治家・高額所得者を除く土地・家屋産所有者全員への罰金的な一律課税。 大多数の住宅ローンは返済不能となり、国民の多くが住処を失い、自己破産した。 街にはおびただしい数の親子連れのホームレスが溢れた。 徳政令の2週間前に、一部の政治家・政府高官・大企業幹部などにはインサイダー情報が予告されたが、それを嗅ぎ付けてネットでリークした報道関係者・政治評論化・市民ブロガーは、ことごとく国策捜査され、性犯罪や詐欺、贈収賄、著作権法違反のかどで社会的生命を奪われた。 イシダ首相は2013の上院選後に、「健康上の理由」で辞任。 代わって国防軍幕僚幹部出身のヤマダ首相が突如就任。 大連立政権は政党の壁を「発展的解消」して「大和新党」と名を改め、一党独裁体制を敷く。 ここに、やがて国民に塗炭の苦しみをもたらす軍事政権の母体が樹立された。 2009年に国防省内局に幕僚から制服組が送り込まれた頃から準備は着々と進んでいたのだ。 海外のメディアには、これは実質上のクーデターではないのか、と伝えている所も多かった。 もちろん国内でそれは一切報道されない。 ヨナが生まれた2017年頃からは、いよいよ日本は軍事独裁国家への道を転がり落ちて行った。 戦地での殉職が相次ぐ中、国防軍への志願が減り、アメリカからの派兵要求の圧力は経済制裁となって襲い掛かった。 世界一の経済大国・中国との経済圏一体化を強硬に拒む大和新党の意向で、沈没しつつあるアメリカからの経済的な自立はままならない。 予想通り政府が打ち出したのは、徴兵制度だった。 第二次大戦中と異なり、国は多少健康に問題があっても徴兵検査で落とすことはない。 検査対象の若者の2割以上の者は厳しい路上生活から薬剤耐性の結核を病んでおり、医療と食事にありつけるだけでも喜んだ。 これにより中東・アフリカ・南アジアの紛争地域は、セカンド・クリーチャを含む日本人の血で染まり、その報復で、首都圏や京阪神は様々な武装勢力のミサイル攻撃や、国内に潜伏するテロ組織による奇襲に度々さらされることになった。 狭い国土に70箇所を超えてひしめく原発や、プルトニウム製造工場は、通常のミサイル兵器の恰好の標的となったため、ほとんどがが閉鎖された。 核施設の破壊で汚染されて住めなくなった市町村は500を超え、移住もままならない貧困層は放射線障害で苦しんでいる。 住処を失って難民となった人は約1000万人。世界最大の難民発生国となリ、周辺諸国を悩ませる事となった。 セカンド・クリーチャは当然カウントされていない。 富裕層の多くは中国・ヨーロッパ・オーストラリアに逃げた。 米どころの多くも農地が汚染されて食糧自給率は5%にまで落ち込み、慢性的な飢餓が10年以上続いている。 皮肉にも、中国へ出稼ぎに行っている国民は被爆から免れ、また原発が全て停まっても電気が足りていることで、国の原子力政策は自作自演だったことが証明された。 核や通常兵器の攻撃を逃れても、国民に安住の地はなかった。 資金がない軍事組織のミサイルの多くには、「蜂」と呼ばれる、体長10cm程のマイクロロボットが数百台搭載されている。 炸裂すればおびただしい数の「蜂」が直接人間に襲い掛かり、毒ガスや病原体で殺傷する。 核弾頭より二桁安いからだ。 「蜂」はソーラーパワーで飛び回るため、一度発進すれば体内カプセルの薬剤が続く限り、何週間も戦闘員・市民を赤外線センサーで追い回し、殺し続ける。 全面禁止されたクラスター爆弾の在庫が、世界規模で底をついたせいもある。 武器商人の扱う最新兵器の前では、迎撃ミサイルなど全く役立たずだった。 そして皮肉なことに、繰り返し日本人を襲い続ける「蜂」の制御チップは、アメリカとイスラエル向けに日本で基本設計されたものだった。 原形を留めぬまでに核攻撃を受けた富士山、そして礎石だけを残して燃え落ちた法隆寺の遺構は、「負の世界遺産」に登録された。 皮肉にもそれまで富士山は世界有数のゴミの山だった為に、その美しい姿形を留めたままでは世界遺産に登録される事はかなわなかった。 伊勢神宮も2回爆破されたが、神官と職人たちの不屈の尽力でその都度、伝統的に定められた遷宮の20年を待たずに再建された。 近付いて来る、フルMOX原発の再建現場の、白く輝くゲートを見つめながら、ヨナは思い返していた。 公立中学の教壇で反戦を口にしたために密告・投獄され、母の失踪後はホームレスをしながら、自分を一人で守ろうとしてくれた父。 そんな父が、床を這う小動物のように、あっけなくひねり殺された10年前の初夏の日のことを... (第2話へ進む) *文中の日本語の団体名・人名は全て架空のものであり、実在の名称・個人名とは一切関係ありません。 "Saudadeな日々" Top Page に戻る |