〜政権交代失敗シミュレーション〜
ヨナの手のひら(4)

"閉じられぬ円環"



翌朝。目覚めて最初の映像は、初秋の気配が立つ高い空だった。
今日は仕事が入っていない。幸いまだフエルは充分ある。
頭が決心するより早く、身体が動く。生きる為に身に付いた習慣。
化粧をした事のないヨナに、身支度は要らない。
メット一つでマシンのロックを外すのももどかしく、キックペダルに力強くムチを入れた。
鋼の老馬でも一声嘶(いなな)けば、風はすぐに冷涼な流線型の皮膜となって時速100キロのヨナを包み込む。
行く手に広がるまぶしい空の青が、肺の中まで沁み込んで行く。

   ― 東へ ―

「ダメだ。ハラ減った。」
いつしか陽は南中しようとしていた。
沿道の、そこだけ時間が停まったような木造の酒屋にマシンを着け、菓子パンと牛乳を買う。
くたびれた婆さんが独りでやっている風情のナンデモ屋で、顔認識用の監視カメラもないようだ。
これ以上放射性物質を体内に入れるのはマズい気がして、牛乳は少々奮発して中国産にする。
値段の分だけあって国産よりは明らかに旨い。

「まあ、腰を下ろしておあがりなさいよ。」婆さんが店先にあるボロボロの青いプラスチック製のベンチを勧めながら、声を掛けて来た。
ヨナが上目使いで少し口を尖らせ、コクリと頷いて座ると、婆さんは顔を覗き込むようにして、目を細めながら言った。
「あなた、可愛いわね。」
初対面にしては馴れ馴れしいババアだな、と思った。
「あらら、ホコリまみれじゃない。いいオンナが台無しよ。これで手と顔を拭いて。」
キンキンに冷えた真っ白いタオル。
石鹸の匂いが運んで来る懐かしさと切なさに、鼻腔の奥がジンとした。

久しぶりの開放感からか、少し油断していた。
感情を見せそうになったのを隠そうと、ふと目を泳がせると、売場の奥の壁に、すっかり色褪せ、薄茶色の裏を見せてめくれ上がったポスターがあった。
大きな数字の「9」をシンボルのロゴタイプに掲げたもので、ある種のイデオロギーを感じるが、インクが薄れて殆ど内容は読めない。
「あ、これ? 20何年も前のものよ。憲法を守ろう、って運動があったの。」
視線の先に反応して婆さんが先制攻撃をかけて来た。
(しまった。るせーな。) 心の中で舌打ちするヨナ。
婆さんはちょっと遠い目をして感慨深そうに続けた。
「何だか、捨てそびれちゃってね。若い人は知らないわよね?とうの昔に。。。」
鼻の奥のさっきの匂いがヨナの幼い頃の記憶の引き出しをこじ開けた。
「憲法9条?」初めてヨナが言葉を発した。
「え!?あなた、戦争放棄の憲法9条の事を知ってるの?すごい子ねえ。」
婆さんは、先程とは変わって凛とした表情になると、ヨナに向き合って更に図々しく彼女の両手を握り、声を押し殺しながら幾分興奮気味に、話を続けた。
深い皺の寄った、よく働いた手だが、手のひらは柔らかく、暖かい。
苦労のせいで老けているが、結構若いのかもしれない、とヨナは思った。
「ちょっと待ってて。」
ヨナがコクリと頷くのも待たず、婆さんは売場の脇の部屋から一枚の写真を出して来た。
「息子がいたんだけど、18歳で兵隊に取られて西アジアで戦死したの。私が殺したようなもんだわ。」
そこには長身の純朴そうな、しかし聡明な目をした、軍服とヘルメット姿の若者が、
ハッとするような美人の中年の女と並んで、少しまぶしそうな表情で映っていた。
女は若い頃の婆さんだった。

「これが最後の写真になったの。このすぐ後で戦地に送られて自爆攻撃に巻き込まれたの。
 相手も18歳のムジャヒディンの特攻部隊の女の子だったそうよ。みんなあなたぐらいの歳なのに。。。」
婆さんは唇が歪んで泣き顔になるのを堪えながら、強い調子で言った。
「2009年の下院の総選挙が間違いだった。あの時、臣民党の息の根を止め損ねた私たちが甘かったのよ。
 まさか本当に徴兵制度を敷いてまで戦争に参加して、核武装するなんて思わなかった。
 私が憲法を守る運動に参加してたせいで、武装解除の進んでない激戦地に息子が送られたの。」
婆さんは一つ溜息をつくと続けた。
「親戚中から、『息子殺し』って罵られたわ。夫ともそれで離婚したの。
 あの子に済まなくてずいぶん悩んだけど、今は間違った事をしたとは思っていない。
 ただ、充分じゃなかった。。。 もっと声を上げなきゃいけなかったのね。
 息子にも出発の日に言われたわ。子どもたちの未来を奪った世代は、タタミの上では死ねないって。
 だからポスターは、自分への戒めを忘れないように、私の命がある内は剥がさないままにしてるの。」

「勤務中だから怒られるって、一緒に撮るのを恥かしがってねえ。」
写真の背景には色とりどりのノボリやプラカードが映っている。
ヨナは自分の鼓動が速くなるのが判った。
「ね、ばあちゃん、これって、いつ撮った?」
「2023年5月1日。東京のメーデーのパレードに参加した時に撮ったの。忘れもしないわ。」
ヨナの心臓はますます激しく暴れだした。
蹂躙された聖夜、母の失踪、祖母との別れ。メーデーでの父のむごたらしい死。
心を閉じたまま親類の間を疎まれつつ転々とし、12歳で再び路上へ飛び出した日。
暴力で決められる過酷な序列。子ども同士が繰り広げる、血で血を洗う派閥抗争。
ドラッグも、異性も、全ては路の上で知った。

「このとき、誰か死ななかった?」ヨナが婆さんの二の腕をつかんで訊いた。
意中の相手に告白する時のように声が震えているのが自分でも判った。
「中学校の先生が装甲車に轢かれて亡くなったのよ。どうしてあなた、そんな事知ってるの?
 政府がこの事件のことを話すのを禁止したせいで、大変な抗議運動が起きて、大勢逮捕されたわ。
 私もネットの活動で拘留されたのよ。密告しろと言われても口を割らないので、ずいぶん殴られたわ。」
婆さんの目に、怒りが宿っていた。
「あの出来事は悲しい事故だったけど、味をしめた軍部は、あれをキッカケに市民を銃で黙らせるようになったの。」
その時、ヨナの大きな目から涙の粒がはらはらと落ちた。
「あらあら、どうしましょう?私がヘンな話をしたからね。もうやめましょう。」
婆さんはヨナが怖がっているのだと思った。
「その人さ、あたしの父さんなんだよ!!」
ヨナがしゃくり上げながら言うと、婆さんは余りの驚嘆に血の気が失せて倒れそうになった。
「ああ!何てこと。。。どうしたらいいの。。。かわいそうに。。。かわいそうに。」
婆さんは、震えるヨナを強く抱き寄せた。
婆さんの頬をとめどなく涙が伝う。
「全部私たちの世代が悪いんだわ。ごめんなさい。。。」最後は嗚咽で声にならない。
「悪くなんかないよぉ。。。」ヨナが婆さんの胸に顔を埋めたまま首を横に振った。
「ごめんね。ごめんね。私だけ生き残ってしまって。」

涙を流す力が自分に残っている事が不思議だった。
婆さんに促され、ヨナもポツリポツリと身の上を打ち明けた。
実は婆さんは、ヨナの父とも接点があり、人権・反核・反戦の平和会議などで何度か会った事があると言う。
父は路上生活者の自立支援で実績を上げていた。政府にとっては、「肉弾に入れ知恵する」目障りな存在の1人だった。
死の当日も別格の扱いで軍からマークされていたらしい。
職業軍人ではない普通の若者たちが「テロリスト」と対面させられる恐怖の中、出来事は起こるべくして起きたとも言える。

どうして今日、自分はこの店に立ち寄ったのだろう。これは本当に単なる偶然なのか。
ヨナと婆さんが考えるよりもずっと、世界は見えない糸で分かち難く繋がっていた。
婆さんは、ヨナが許してくれるなら、身寄りのない者同士、今日からは孫と祖母になろうと言ってもくれた。
「また会えるよね?」
「もちろんよ。本当に困った時は、いつでもいらっしゃい。」
婆さんは再びヨナを抱き寄せると、両手で頬をいとおしそうに撫でながら、潤んだ目で囁いた。
「ヤミチャットは気をつけてね。スキャンされてるから。」
そして別れ際、金のコインが10枚入った小さな絹の巾着を持たせてくれた。
「金(GOLD)はどんなに世の中が乱れても価値が消えないから、必ず役に立つ時が来るわ。」
写真の中の佳人と、目の前にいる婆さんとの間に、たった12年の隔たりしかない事が、ヨナには不憫(ふびん)だった。
マシンに跨り、エンジンに点火したヨナに、婆さんは微笑みながら声を大きくして言った。
「生きる事を、絶対に諦めないで!私も、つかみ損ねた未来より、現実を生き直すから。」
「あ・り・がとう。。。」物心付いて以来、初めて口にした感謝の言葉に、顔がカッと熱くなった。
照れ臭さに免疫のないヨナは、くたびれた250ccのスロットルを思い切り捻り上げるしかなかった。

記憶を頼りに更に東へ、小一時間走る。 一千年の古都を見下ろす小高い斜面に祖父母の墓はあった。
この街は、軍港からは丘陵地を隔てているので、武装勢力の攻撃は受けていない。 誰一人参る事もなかったらしく、7年ぶりに訪れる墓は荒れ果てていたが、幸い墓石は倒れていなかった。
しかし、ここに父の骨はない。
「デモの死者はいない」事になっている為、父の名前の入った死体検案書(埋葬許可)が出なかったので、身元不明者として無縁墓所に合葬された。
親類と縁が切れた事で、その墓所をヨナは知らない。
だから、この祖父母の墓を、父の墓でもあると決めている。
時間をかけて雑草を丁寧に抜き、野の花を摘んで供えた。
傾きかけた陽が、緑陰の濃い山の稜線を染め始めている。
「父さん。生きられるだけ生きてみるよ。どこまで行けるかわかんないけど。もう原発はやめる。」

市街地を抜けると、落日に染まる海が開けた。
砂の上に降り立ち、重労働で傷ついた手のひらを波打ち際に浸してみる。
海水の鋭い刺戟に一瞬声を漏らしたが、生命の実感が痛覚を通して蘇ってくる。

「この手のひらは、誰のでもない。自分だけのものなんだ。何をつかもうと自由なんだ。」

気が付けば、異様なまでの夕焼けが、全天を覆い尽くして燃え上がっていた。
無数の赤トンボが、まるでレース地の柄のように、同じ向きに流れてゆく。
茜色に輝く短い髪を、陸風が小刻みに震わせる。
防波堤に上って、ポケットから煙草の葉をひとつかみ取ると、紙の端を舐めながら手馴れた仕草で巻き、背中を丸めながら、ひしゃげたジッポーで火を点けた。
目を閉じ、波の音と潮の香りを煙と一緒に全身の皮膚で吸い込んでみる。
ヨナは今日一日を振り返り、自分が自分である事を、少しだけ誇らしく思った。

風が冷たくなった。
「ヤベ。今夜どこで寝よっかな。。。蜂怖えーし。」
しかし、今のヨナの表情に不安の色はなかった。

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*文中の日本語の団体名・人名は全て架空のものであり、実在の名称・個人名とは一切関係ありません。

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